ノルウェイの森

110108
 映画「ノルウェイの森」を見た

 トラン・アン・ユン監督の映画は「青いパパイヤの香り」しか見たことが無いけど、階段を昇っていくワタナベをぐるぐる回りながら追うカメラがそのまま森の上をぐるぐる回りつづける目眩がするようなシーンや、画面一杯に広い広い草原が広がり遠くにワタナベと直子がいるのがかすかに見て取れるシーンでは手前の草にはピントがあって美しくざわめいているシーンが印象に残った。このシーンに限らず、強い風や強い雨のシーンが何度も登場して心の風景を強調しているようで美しかった。
 若い人には面白くない、というか意味がわからないかもと思った。返事の来ない手紙を待ち続ける時間。その間に相手のことを考える時間。やっと届いた手紙にはもう少し待って、と書かれている。雪が降る頃に会いに来て、と書いてある。親とか家族とかに取り次いでもらってやっとの思いで繋がる電話。10円玉がコトリコトリと落ちていきどんどん少なくなっていく公衆電話の有限の時間。。。携帯やネットで瞬時に繋がることが人間関係を作ることと直結している世代にこの孤独な「時間」の感覚を共有することはできるのだろうか。無駄に思えるその「時間」の中に大切なものの萌芽が詰まっていたのかもしれないし「時間」の中でその萌芽は何かに形を変えていったように思える。少なくとも僕らの世代にとって「孤独」というのは生きていく上での大切な要素のひとつだった。ヨーロッパをひとりで旅した時に感じた圧倒的な「孤独」は今でも僕の中の大切な感覚だ。その時、僕も旅先でいろんな人に手紙や絵ハガキを書いていた。
 部屋の境にガラスのイミテーションのプラスチックのビーズのようなのれんが掛かっていたり、ベルボトムのジーンズのベルトが太かったり、緑がかけているサングラスが異常に大きかったり。部屋の照明の傘が無駄に大きかったり、どうでもいいところで僕と同じくらいの年代の人はものすごく物語に入っていけると思いますよ(笑)。あ、このださいのれんどの家にもあった、あったって。それにしてもヴェトナム生まれフランス育ちの監督にこれらのセッティングは無理だ。優秀な日本のスタッフも幾重にも監督を支えていたであろう事を想像できる。もちろん監督の実力がその輪を増やし人柄がその輪を強くしているのだろうけど。だって自分の知らない国で、知らない俳優を使って、知らない言葉を使って映画を作るなんて、それだけですごい事だ。
 途中、笑いそうになる場面が何度かあったのだけどなんか深刻な感じに空気に包まれた映画館の中では一度も笑えなかった。
 エンドロールの最中に僕らを含めた20人くらいの客の誰も立たなかった。普通、エンドロールが始まるのが映画の終わりとしている人達が次々に帰るものだけど。バックで流れるアコースティックな音色が映画を振り返って余韻を浸るのにとてもあっていたからだろうか。少なくとも僕はそうだった。きしむような音を聞きながら余韻に浸っていた。緑役の水原希子、良かったなぁ。霧島れいかも初音映莉子もたぶん初めて知った。でもこの映画に出てきた全ての女優は皆、美しかった。
110108
 ベストセラーの単行本を読まないへそ曲がりの僕の本棚にも原作になった村上春樹の「ノルウェイの森」の上下巻がある。久しぶりに引っ張り出してきて奥付を見ると
1987年9月10日 第1刷発行
1988年7月28日 第17刷発行
とあるから初版から1年後に読んだようだ。ベストセラーを殆ど読まない僕がこの本を買って読んだのはたぶんカミさんと付き合いだしたからだ。読んですぐ貸した記憶がある。二人にとって最初に共有した読書体験だったかも。とはいえ内容は驚くほどきれいさっぱり記憶から無くなっていて、映画は初めての物語として見られたのが嬉しいのか悲しいのか良くわからない。ただ、本を読んでから20年近くたった後、映画化されたものを今はカミさんとなったその時の彼女と一緒に見られたのはとても良かった。