春になったら苺を摘みに

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 facebookでこんな一節が紹介されていた。まず「形」にひかれ文章を読んだら胸に迫るものがあった。梨木香歩が好きなカミさんに聞くと持っている、というのですぐに読んだ。「春になったら苺を摘みに」
 梨木香歩さんの初めてのエッセイ集。カミさんはとても大切にしている本で原発事故の後、何人かに貸したのだそうだ。
 共に生きる、とか絆とか、言うのは簡単、だけど具体的にするのは本当に難しい。放射能を浴びせられた僕は、これからも日本の産業のためにどんどん原発を動かそう、という人たちに共感する事はきっと難しいだろう。向こうだって原発いらないという意見に少しでも歩み寄ってくるとは思えない。
 原発は事故の後、無くして欲しい人とこれからもずっと続けていきたい人に大きく2分された。
   国がまっぷたつだ。
 それ自体が大変な事だと思う。それなのに未だにコストでこの問題を論じる人がいて信じられない。未だに避難を余儀なくされている16万人の前でもコスト的には原発の方がとか話せるのだろうか。もう、立っているところが違いすぎて、遠くへ行ってしまいたくなる。何が共生だとか毒づきながら。難しいなぁ。
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 この本は原発事故前に書かれたものだけど、今の状況でも理想と現実の狭間でどうやって生きていったらいいか、という事を考えるヒントになる言葉にいくつも出会う事ができた。
※このあと本からの抜粋です。ネタバレが嫌な方は先に読み進まないでください。

 観念的な言葉遊びはもうたくさんだった。文字の内側に入り込んで体験したかった。本などよむこともなかった働き通しのドリスの生活と、ストイックな修行僧の生活。
 それは、個人的な経験として、どう異なっているのか。
 日常を深く生き抜く、ということは、そもそもどこまで可能なのか。

 それしかない、と覚悟を決める瞬間は、外から見てどうであれ、個人の体験としてはいつでも自力で重いドアを押して向こう側の空気に身を晒すような清冽なものだ。

 ただひたすら信じる事、それによって生み出される推進力と、自分の信念に絶えず冷静に疑問を突きつける事による負荷。
 相反するベクトルを、互いの力を損なわないような形で一人の人間の中に内在させることは可能なのだろうか。その人間の内部を引き裂くことなく。豊かな調和を保つことは。

 二つ以上の相反する方向性を保つということは、案外一人の存在をきちんと安定させていくには有効な方法なのかもしれなかった。コツさえ見いだせば。

 同じ道徳を共有していないからといって簡単に彼らを非難できないと思う。事はそう単純ではない。
 価値観や倫理観が違う人間同士の間でどこまで共感が育ち得るか、という課題。

 ディベイトという名のスポーツを私は信じない。

 一番最初に紹介した「三角形」の文章が出てくる「夜行列車」というエッセイは特に心に響いた。ある老いた鉄道員にあらぬ誤解を受けた作者は、どうしてもその気持ちをしまったままにしておく事ができずにいう。

—あなたが私の言う事を信じてくださらなかった、あのとき。
—私は本当に悲しかった。

 驚いた。それは僕が一番言いたくて、でも一番言葉に出来ない言葉のひとつでもある。
 そして幸せな事にこの言葉は鉄道員にきちんと届いた。涙が出た。
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 図書館で働いている方で信頼している方が最近、蔵書に加えたという本も読んだ。アメリカ人が書いた原爆被害の本。原爆によって失われたもの。「本当」の写真と文で語られていく。「さがしています」

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