床屋さんで

photo credit: Elaron via photopin cc

photo credit: Elaron via photopin cc

 数日前に床屋へ行った。

 主人は僕の父親より10歳以上は年上だろう。まだ、現役で働いている。

 リズムよくハサミを入れられていると、ガラス戸の入り口から「用事まで、まだ1時間あんだ」と言いながら、初老の男が入ってきた。客ではないな、と鏡に写ったその老人を見て思った。なぜなら、床屋で刈る必要のある髪の毛は、すでに一本も残ってはいなかったから。主人の知り合いだろうか。ツヤのある頭の上には明らかにサイズが小さすぎる、誰かの手編みと思われる太い毛糸の帽子がちょこんと載っていた。「用事まで、まだ1時間あんだ」また老人は言った。主人は一瞥をくれただけで返事もせず、僕の髪の毛を黙々と切り続けている。

 老人は大きな音のするサンダルで、しばらく店の中を歩きまわっていたが、空のペットボトルを見つけて水を入れ始めた。主人は相変わらず一瞥しただけで「やめろ」とも言わないところを見ると、やはり知り合いなのだろう。もしかしたら近くに住む兄弟なのだろうか。気になって鏡に写る老人の動きを目で追っていると、店内の窓際にいくつも並んでいる植木鉢に、勝手にペットボトルから次々に水をやり始めた。最後にレジの横の大きな鉢に、たっぷりと水をやっていると「大変だぁ大変だぁ、この鉢、全然水を吸わねぇ。大変だぁ、大変だぁ」と声をあげた。鏡からはよく見えなかったけど鉢からどんどん水が流れ落ちているようだ。

 僕の髪の毛を刈っていた主人が、初めて手を止めて「その木はあんまり水いらねぇんだ。」と言った。「雑巾は、雑巾は」と言う老人に主人は全くあわてず、「ほら、その衝立(ついたて)の裏」と言った。鏡からは、よくわからなかったけど、そのまま鉢のところへ行って受け皿に雑巾を浸し始めたようだった。「駄目だこんなんじゃ追いつかねぇ」と言うと、近くで順番を待っていたおじさんに「この鉢、ちょっと持ってて」と言うと、返事も聞かずに無理やり水のしたたる鉢を押し付けた。かわいそうなおじさんがズボンに水がかからないように股を開いて必死に鉢を持っているのが鏡越しに見えた。老人は水でタポンタポンになった受け皿の水をこぼしながら、僕の横を通ってガラス戸まで歩いていって店の外にその水をすてた。

 戻ってきてレジの台のこぼれた水を雑巾で拭き取り、ゆっくりと受け皿を置き直すと、鉢を持ったままのおじさんに「良かったねぇ」と言った。鏡越しには、おじさんの困った顔が少し笑顔になったように見えた。良かった訳じゃなくて、もう鉢を戻しても大丈夫になって、ほっとしただけだと思う。

 老人は受け皿の水を捨てに行くまでに、点々と床にこぼした水を雑巾で拭き始めたけど、拭いているというより辺り一面を濡らしているようにしか見えなかった。ひとしきり、床に水を塗り広げた老人は「あ、おら用事があるんだった」といって床屋を出て行った。入ってきてからまだ15分くらいしか経っていなかった。

 床屋の順番を待っていて突然、鉢を持たされたおじさんを鏡の端に見てみると、まだ少し困ったように笑っていた。