レストランのコースター

 10年前、カルムイク共和国というロシアの共和国で開催された彫刻シンポジウムに参加した。念願だった海外の彫刻シンポジウムに参加したいという思いが心配な気持ちを少しだけ上回ったので、その国がどこにあるのか良くわからないまま、不安を抱えながら飛行機に乗った。そこで1ヶ月半ロシアを初めとする彫刻家と共同生活をしながらそれぞれひとつの野外彫刻を制作した。僕には英語を勉強中の学生が通訳としてついたが基本的には英語のわからないロシア等の彫刻家と毎日朝から制作し生活しウォッカを飲んで歌っていた。国や考え方が違っても同じように石を彫っている者同士、コミュニケーションとは言葉だけではなくても出来るのだと深く実感する日々だった。1週間もすれば来る前の心配はどこへやら全く共通の言葉がないのに制作後もディスコにいったり遊んだり何人も仲良くなった。その中にいつもゆったりとやさしく微笑んでいるブリヤート共和国のミロノフもいた。僕の作品の設置の時は制作を休んで現場でずっと見守っていてくれた。(寒い寒い制作の合間に小屋で暖をとる彫刻家たちの写真はこちら。一番左がミロノフ)
 僕の制作と設置が完了しビザの関係でみんなより一足早く日本に帰ることになった時みんなが「ビールの好きなたまきのためにビールの飲めるレストランでお別れ会をやってやろう」という事になった。(今のロシアでは冷たいビールは人気らしいけど)その頃のロシアはビールは本当に人気のないお酒で、みんなで毎晩のように何本も空けるのはウォッカだった。だからビールの宴会というだけで彼らの優しさが胸に染みたものだ。
 僕は旅行に行くと1冊のノートに日記を書きデッサンをし貼れる物を何でもかんでも貼り付ける。飛行機のチケット、トイレットペーパーやレシート、セミチカ(ひまわりの種の焼き売り)を入れてもらった袋、切符なんでも。この彫刻シンポジウムでも毎晩の様に空けられるウォッカやワインのビンをもらうとビンをバケツに浸しラベルを剥がしノートに貼り付けていた。(変わったことをやっていると相当うけていたらしい)
08072702.jpg
(そのノートのあるページ 左からトイレットペーパー、ビール、炭酸入りミネラルウォーター、ウォッカ)
 さて、そのお別れ会の事。ビールのグラスの下にやけに大きなコースターが敷いてありその大きさにずいぶん興味をそそられた。と、その様子を見ていたミロノフがその大きなビールのコースターを僕の何でも貼り付けるノートに記念に加えてやりたいと思ったというのだ。でも、優しくて曲がったことがきらいなミロノフ。コースターをいただいてしまう事と僕にプレゼントしてやりたい気持ちの間で揺れて結局、服の袖に隠して店を出た後、僕にくれた。僕はそんな葛藤があって冷や汗をかきながらとってきてくれたものとは思わず、でも嬉しくてそのコースターをノートの表紙に貼り付けて「ミロノフがくすねてきてくれた」とメモしておいた。そのノートがこれ。(左は僕が好んで吸っていたタバコ「ピョートル・ピエルビ」)
08072701.jpg
 そして、この写真でノートを持っているのはミロノフの息子、エルデニ。(タバコの箱を持っているのは弟)場所は昨日バーベキューをした我が家の庭、日本。ミロノフの4人の子供のうち3人目の青年が日本語を勉強しているのは知っていた。何回かミロノフの通訳としてロシアから電話してきてバイカル湖にあるサマーハウスに遊びにおいでと誘われたりしていた。そして今、日本の旅行会社にこの春から勤め経済の好調なロシアからの観光客を日本によぶために連日深夜まで築地と銀座の間にあるオフィスで働いているという。家ではお父さんの制作の手伝いをしていたという弟のセルゲイも8ヶ月前から日本に来ていて、ふたりでレンタカーに乗り宮城の我が家まで遊びに来てくれた。
 バーベキューをしながらロシアのビールとウォッカの話になったときお父さんが「たまきのために必死にコースターを手に入れた」話を家族に何度も話して聞かせたんです、と言うのであわててノートを探して引っ張り出してきた。まさかノートの表紙にコースターを貼り付けたとき将来、そのコースターの貼られたノートをその息子ふたりとビールを飲みながら一緒にめくることになるとは思わかった。もちろん彼らも「何度もお父さんに聞かされたそのコースターを見ることになるなんて」と笑っていた。なんて幸せな。
(ブリヤート共和国の首都、ウラン・ウデはミロノフのブロンズの彫刻で飾られているという。その数現時点で14個。英語版のwikipediaのウラン・ウデのページのイメージギャラリーでそのうちのひとつが見られます)