期日前投票

 選挙当日はカミさんが主宰する音楽教室の発表会で、僕は準備や写真撮影の仕事というか雑用全般担当なので(笑)今日、期日前投票をすませてきた。本当はもっと前に行こうと思っていたのだけど最高裁判所裁判官国民審査の受付が今日からだったので待っていた。裁判に対して感じている理不尽な思いを表明ができるほとんど唯一の機会だから以前からかかさずやってきた。だけど、この審査、罷免すべきだと思った裁判官の氏名の上に×印を書くのだけれど、何も書かないと認めたことになるという方法にも意図を感じる。一般市民に理解を深める努力なんかしなくても、まず罷免されることはない。実際、無い。原発に関する裁判もたくさんあったけど国が敗訴したことは川崎和夫さんが裁判官だった時のたった一度しかない。住民側逆転敗訴の判決をした最高裁の人たちに原発事故についてどう思うか聞いてみたい。他意はない。シンプルに素直な気持ちで聞いてみたいことがたくさん、ある。
 選挙はいろんな立場の人がいて、いろんな意見があって、まあ結局、みんな自分が一番得できそうな人や政党に投票するんだろうけど僕は【被曝させられた立場】で投票してきた。”ひどい目にあった人は可哀想だけど電気が必要だし自分の近くに原発がある訳じゃない”とか”放射能の事はあんまり心配してません、何でもばくばく食べてるし”という人が、放射能の問題で苦しむ人の立場に立って投票するはずは無いから、実際に苦しめられている自分がその立場で態度表明をする必要がある。
 被曝させられた人間にはその経験を無駄にしない責任もあると感じる。
 あれだけの事故が起こったのに、それでも原発を動かすという政治家がいる。 政党がある。被曝させられた僕らの存在がまるでなかったかのように無視し、放射能被害を無かったことにしている。何が(原発の)収束宣言だ。放射能はもれ続けているのに、どこが収束している。彼らが描く日本の未来に僕らの存在は含まれていない。棄民だ。東北を初めとする多くの人の悲しい経験と存在を無い事にして、そこから何も学ばないで今までと変わらない思想のまま声を張り上げこの国の未来を語る政治家に僕は投票しない。死ぬまで。
 大地や自分の体にまで放射能を振りまかれても原発を稼働させたい政党を応援できるほど人間が出来てないし、日本にある全ての原発を作り結果的に多くの人の幸せを奪っても反省しない自民党は絶対に許さない。脱原発に一票入れてきました。
 それにしても、選挙になった途端、当選するためだけに急に「原発ゼロを目指す」とか言いだした候補者の多いこと。ある意味、原発推進よりも最低。口だけ脱原発を目指すという原発依存。目指すという人たちは永久に目指すだけだ。変らない先送りという手法。
 例えば、官邸前金曜デモ。新聞やテレビのニュースだけ見ていた人はわからないだろうけど、ムーブメントになる前から誰が来ていたか、どの政党が来ていたか、ネットを見ていた僕らは知っている。これを言っておけば受かりそうと「原発ゼロ」を急に言い出した候補者はその時何をしていたか。
12120902.jpg 手塚治虫が鉄腕アトムを描いた時、半世紀後のこの国に2本足で走り回るロボットがこんなに沢山生まれることを想像しただろうか。漫画を読んだ子ども達はアトムみたいなロボットが心の底から欲しいと願っただろう(僕もだ)。何人かは大人になってもその夢を忘れられなかったのだろう。そして創った。本当に願うことはきっと実現する。世界中に沢山の国があるけれど二本足で走ることが出来たりダンスまでするロボットが、日本にこんなに生まれたのは偶然じゃない。だけど放射能がもれ続け、放射能で汚染された水を垂れ流し続けているその国の政治家は、それでも原発を動かすという。脱原発を望むが出来ないと。出来ないんじゃない。望んでない。
 ベストセラーの「世界の中心で、愛をさけぶ」は読んだことがありませんが、これを書いた片山恭一さんがおととい(12/7)玄海原発訴訟の原告として、佐賀地方裁判所にて意見陳述をした時の原稿がオフィシャルサイトに公開されています。深く共感したので少し長いけど全文を転載します。

 私は文筆を生業とする者です。主に小説を書いています。学生のころから、核兵器を含め、核エネルギーという人間の技術にたいして、心情的な嫌悪と反発を感じてきましたが、かといって積極的に反対してきたわけではありません。原発の安全性についても、多くの日本の国民と同じように、福島の事故が起こるまでは、ほとんど無関心であったと言っていい。そのことを強く後悔しながら、いまあらためて核エネルギーについて考えようとしています。
 福島の事故が起こってまず思ったことは、私たちは歴史上はじめて、未来の者たちから憎まれ、蔑まれる先祖になったのかもしれない、ということです。私たちは子どものころから、先人たちを敬い、感謝することを教わってきました。そうした教えは、実感ともずれていなかったと思います。この暮しは、昔の人たちが連綿として培い、築き上げてきてくれたものの上に成り立っている。そう素直に信じることができた。しかしいまや、状況はすっかり変わってしまったと言うほかありません。未来の者たちが私たちにたいして抱く思いは、敬いでも感謝でもなく、「なんということをしてくれたのだ」という、恨みとも憎しみとも蔑みともつかない、やり場のないものではないでしょうか。
 原子力発電は、ウラン鉱の採掘からウラン燃料の濃縮、発電に至るまで、すべての過程で多くの放射性廃棄物を産出します。高レベル放射性廃棄物の場合は、深度三百メートル以上の地層で数万年以上にわたって管理する必要があるとされています。これは「地層処分」と呼ばれ、現時点では唯一の最終処分法と考えられているものです。ノルウェーでは、一億八千万年間動いてないことが確認されている花崗岩の岩盤に、深さ五百メートルの地下施設を作って、最終処分場にしようという計画が進んでいるそうです。しかし地殻変動の活発な日本では、このような地下処分は不可能でしょう。そこで今後、五十年から数百年にわたって暫定的に保存し、そのあいだに最終処分法を考えようという案が浮上しています。
 「最終処分」と言うのだそうです。放射性廃棄物の最終処分……ヒトラーが同じ言葉を使っています。彼はユダヤ人絶滅政策にかんして、この言葉を使ったのでした。「最終処分」というプロセスを伴っていることが、すでに決定的に間違っているのではないか。そう考えてみるべきではないでしょうか。地中から取り出したウラン鉱石をエネルギーに利用し、その廃棄物を最終処分する。それが地球を、あるいは世界そのものを最終処分することにならなければいいと思います。
 いったい誰が、どのような権利があって、こんなことをはじめたのでしょう。五十年から数百年にわたって暫定的に保存すると言っても、数百年先のことなど誰にもわかりません。日本という国はなくなっているかもしれないし、人類だってどうなっているかわからない。ほとんど人間が生存するかぎり管理しつづけなければならないものを、私たちは現在の自分たちの生活のためだけに生みだしつづけています。たった半世紀ほどのあいだに繁栄を謳歌した、地球上のごく一部の人間が、この先数万年に及ぶ人間の未来を収奪しつつあると言っていいのではないでしょうか。
 いくらノーベル賞級の知性を結集したと言っても、私たちのやったこと、やりつづけていること、将来もやりつづけようとしていることは、間違いなく浅知恵です。人間は技術的に高度化すればするほど、深刻な浅はかさにとらわれていく。一流の頭脳をもった人たちが一生懸命にやっていることを集積すると、ほとんど人間性を根底から否定してしまうほどの、巨大な愚かしさが立ち現れてしまう。そういう恐ろしさ、忌まわしさが人間の技術にはある気がします。
 数十年先、数百年先には、核にたいするテクノロジーは格段に進歩しているかもしれない。原子力発電所は安全に運転されるようになっているだろうし、核燃料サイクルは確立されているだろう。「死の灰」を無毒化する方法も見つかっているかもしれない……そのように考えることが、まさに浅知恵なのです。本当の「知恵」とは、未来の者たちにより多くの選択肢をもたらすことではないでしょうか。核エネルギーの研究や開発をつづけるかどうかは、あくまで未来の人たちが判断すべきことです。これまでに生み出された放射性廃棄物を処理するためだけにも、彼らは否応なしに、核エネルギーの問題に取り組みつづけなければならない。このことをとっても、すでに私たちは、既定の未来を彼らに押しつけているのです。将来に不確かな期待をもつことは、さらに彼らの未来を収奪しつづけることになるでしょう。
 数万年以上にわたり貯蔵・保管しなければならない物質を生み出すような技術を、過去に人間はもったことがありません。この厄介な物質をどうするかということは、私たちがはじめて考えなければならないことです。ここに原子力発電という技術に伴う、大きな倫理的空白が生じているのです。この空白に付け入ってはならないと思います。それはかならず人間性を損ない、私たちをいかがわしい生き物にしてしまいます。
 最後に、私がたずさわっている文学の話をさせてもらいたいと思います。文学とは本来、人間の可能性を探るものです。人間はどのようなものでありうるか。小説は、それをフィクションという設定のなかで問うものだと、私は考えています。核エネルギーとともにあることで、私たちは人間の可能性を探ることができなくなってしまいます。なぜなら核廃棄物という、自分たちに解決できないものを押しつけるというかたちで、私たちは数万年先の人間を規定し、彼らの自由を奪ってしまっているからです。少なくとも私のなかでは、核エネルギーの問題を放置して小説を書きつづけることは、自らの文学を否定してしまいかねない矛盾と欺瞞を抱えることになります。これが原子力発電所の廃絶を求める裁判に、私が参加しているいちばん大きな理由です。
 自分はいかなる者でありうるか、ということをあらためて考えたいと思います。私たちが個人でなしうることは、一人の人間の身の丈を、それほど超えるものではありません。しかし私たちが「こうありたい」と望むことは、過去と未来を貫いて、人間全体を眺望しうるものです。そのような眺望をもって、自分の死後に生まれる者たちと、どのようにかかわるか、いかなる関係をもちうるか。それが生活や経済とはまったく次元を異にする、人間の自己理解の根本にある問題です。過去を健全に引き継ぎ、歪曲されない未来を受け渡していこうとすることによって、私は自らが望むべき者でありたいと思います。そして私たち一人一人の人間性を深刻に損なってしまう原子力発電からの速やかな離脱を、この裁判をとおして強く訴えたいと思います。
 以上、意見陳述を終わります。

2012.12.7 佐賀地方裁判所

意見陳述書(玄海原発差止等請求事件・原告)