愛のむきだし 園子温監督

121108
 園子温監督の映画「愛のむきだし」を観た。
 観ようと思ってから4年も経っていた。いきなり「愛のむきだし」を見ないで心の準備を兼ねて園子温フェスティバルを開催していた。ひとりで夜中に自室のMacの前でだけど。
 「ヒミズ」 「冷たい熱帯魚」 「恋の罪
 地震と津波被害にあった現場でも撮影したヒミズも感情を揺さぶられる強い映画だった。こんなところでカメラ回して不謹慎とかいう人もいるだろうけど、よっぽど真剣に向き合ってる。
 誰かが言っていた。園子温監督の映画は「鑑賞」ではなく「体験」だと。本当にそう思った。特に「冷たい熱帯魚」なんて。
 「愛のむきだし」を観るときは絶対4時間を一気に観ようと思っていて、数日前に深夜にとうとう観た。目の前で繰り広げられている、くだらない事を一生懸命やっている姿にくだらねぇと思いながら涙がにじんでくるような感じが胸の奥から湧いてきたり、今までに経験したことのないようないくつもの感情を味わった。泣きながら笑う、とか簡単に言えないような複雑な感情だった。言葉にうまく分類できないような気持ち。そして、それは不思議で素敵な体験だった。
 ユウの西島隆弘の強い姿も、弱い姿も違和感が感じられないキャラクターはすごい。そして何よりヨーコの 満島ひかりという女優のこの映画の中での圧倒的な存在感。ただ写真だけ見てもそれほど目立たない女の子が、映画の中では、強くてか弱くて泣いて笑って怒って、全ての表情が魅力的。映画を見ている間の4時間、僕はユウと同じ目線で彼女を見ていた。完全に惚れていた。見つめていた。
 大好きな映画にまたひとつ出会えた。
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 園子温監督の映画だけではなくていろんな映画を観ている。震災後の1年間ほとんど映画を見なかった反動かもしれない。映画館に行く余裕が無いのでもっぱら寝る前にMacで観ることになるけれどレンタルDVD以外にもネットのレンタルを試してみたけれど、iTunes StoreのレンタルはHDと書いてあっても「ブルー・クラッシュ」の美しい海のシーンが夕暮れになるとブロックノイズが出てしまったり、YouTubeの映画のレンタルも画質は粗くイマイチだった。それでも、時間ができた時にすぐ見られるのはいいところ。便利と画質のどちらをとるか。


 園子温監督の最新作の「希望の国」も早く、観たい。

これまでの取材で「なぜ今原発なのか」と何度も聞かれたという園さん。
「僕はむしろ、なぜ今原発を撮らずにいられるのかを問いたい」
毎日jpより

 本当にそう思う。人類が経験したことのない原発事故で否応なく時代が変わった。事故前と事故後は時代が違う。時代の空気も人の考えも感情も。現実を見ないで何もなかったかのように表現されても、それはただの時代遅れ。直接的にその問題が表現のオモテに出てくる出てこないは別にして、その事を踏まえていなかったら意味が無い、と思う。何も無かったかのように今までどおり愛のうたを歌われても。

――今回、日本だけでなくイギリスや台湾からも出資を受けての映画勢作となったとのことですが、これは?

「そうなっちゃったというか。まあまあヒット作を作ったから、いろんな映画会社が、どんな過剰なものでもいいですよ、タブーに挑戦しましょう!って言ってきたんですけど、”原発”って言ったらタブ~~~~って去っていっちゃった。どんなエロでもグロでもいいって言ってたのに、よっぽどタブーなんだなって。結局、どこがタブーかというと、出資したことで社会的な意見を言ったことになるのがイヤだってことでしょ。だからこの後他に原発の映画はほとんど出てこないと思う。津波の映画は撮れると思うけど」
ぴあstarcat より

 これが現実か。日本の。

「何せ僕自身、『希望の国』を映画作品と思っていないですから。これは2012年の増刊号的なもの。いまこうやって受けている取材も、あと先日放送されたNHKの『ETV特集』(『映画にできること 園子温と大震災』)もひっくるめて、『希望の国』の一部なんです。だから賛否両論とか、そんなのはどうでもいい。従来の映画の役割とは全然違いますから。希望という言葉を皮肉に思えるならそれでもいいし、文字通り受け取ってもらっても構わない。まさしくこの映画を、『感情』として体験して欲しいんです」
(QNICCより)

 宮城県も被爆地であるのに、2012年には見られない現実。園監督が2012年中に創ることに意味があるとして完成させて公開まで漕ぎつけたものを、2012年に見ることができない。
 上のNHKの『ETV特集』でも紹介されていたヒミズを撮影していた時に作ったという詩がまた、とても心に響いた。
 こちらにその詩の全文「数」
 上の詩を読んで改めてインタビューを読むと胸に迫るものがある。

この映画で「数え」ようとしたものは何、と尋ねたら、メガネの奥の目を細め、言った。「いえ、これは比喩の詩ではありません。僕は本気で花びらを数えようと思ったんです」。思わず、胸をつかれた。
毎日jpより

何が社会的な役割なのかは僕には分かりません。よく、「こんな映画を撮ったからって、世界が動くわけじゃない」って言いますけど、それでは何をやったって動かない。そういう人は、すぐ「デモに行ったって何にもならないじゃん」みたいなことも言いかねないんですけど、そこには必ず動いた分の何かがあるはずなんです。
(映画と。より)

 


 「愛のむきだし」で、ヨーコが次に何をするのか見ているときは、本当に胸がドキドキしていた。
 本や映画のいいところは自分の人生とは違う別の人生を歩み、経験できない世界に連れて行かれることだ。映画を観終わったあとそれは、本当に、ただの「記憶」というよりは「経験」だ。
 母親が子供を殴り殺した、というような言葉に出来ない悲しい事件が珍しくなくなった。その時に「なんでそんな事出来るんだろう、信じられない」「人間じゃないよね」「馬鹿じゃない」と言う人がいる。「それをしちゃう人間」と「自分」は全く別の世界に生きているかのようだ。「自分」と彼らの間には決定的な違いがあってその行動を理解できない、と言う。僕もその行動を全く賛同できないけど、自分と全く関係の無いことだとは思えない。子供を殺してしまう母親と自分は地続きだ、と思う。
 例えば、この不況の時代に運悪く金を稼ぐことが難しくなり数日間、飲まず食わずに過ごした後、誰も見ていない目の前の棚にパンが乗っているのを見たら、自分は道徳的な人間だから絶対に盗まないと言い切る自信がない。殺人犯やどろぼうを声高に非難する人はそんな状況でもただ死んでいくことを選択するのだろうか。場合によっては殺人さえ犯しても生き延びる方を選ぶ可能性はゼロだと言い切る自信があるのだろうか。
 自分が絶対に向こう側の人間になることが無いと言えるのは、そんなに立派だから?自分の理性を信じきれるから?想像力が無いから?考える必要もないから?どうであれあの人と自分は全く違う、でおしまいに出来る人は何かを切り捨てている。とても冷たい。
 たぶん尼崎で自分が直接手を下さず何人も殺した(とされる)女の事件のせいで、いつにもまして周囲で「信じられない」という声を聞いているから、こんな事書いてしまっているのだろう。僕も(信じられない)と思っているけど人生の歯車がひとつズレていたら、自分がそうなる可能性が無いとは思えないから「ほんと、信じられな〜い」なんて言いながら、仲間にどうしても混ざれない。
 それにしても死を覚悟して息が詰まるような思いで暮らしていた人の事を想像すると言葉がない。そしてついには殺されたのだとしたら。
 想像が全然追いつかない。
 この光が見えない事件も、いつか園子温監督が映画にするかもしれない。
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