大いなる沈黙へ

「大いなる沈黙へ」を観た。

すごく楽しみにしていた。僕はいわゆる「宗教」を信じていないので、宗教的な興味よりも現実的に僕と正反対の生活がどんな風に行われているのかを見たい。

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(宣伝などで公開されている以上のネタバレはありません)
内部にカメラが入ることが許されることはなかったカトリック教会の中でも厳しい戒律で知られるカルトジオ会の男子修道院である、グランド・シャルトルーズ修道院にカメラが入ることが許されたのは申請から16年後。しかも映画化の際に「映画」では当たり前の音楽、ナレーションを加える事は禁止、撮影時の照明も禁止、というストイックすぎるものだったらしい。
最近は映画を作るときに、2時間を超えないようにするというのはプロデューサーから必ず出される条件らしい。観客が2時間以上の映画鑑賞に耐えられないから。そんな風潮の中、この映画は2時間49分。しかも音楽やナレーションが無い、というのがいかにある意味新鮮な映画体験かすぐに体感することになるだろう。
映画が進行して行く間、聞こえてくるのはほとんどが、寝てしまった観客の寝息かいびきか空調の音。それほど静かに映画は進行していく。だから逆に、賛美歌などの音楽が沁みてくる感じ、人工的な刺激だらけの生活とは対局にある日々の淡々とした生活の感じを疑似体験することになる。
個人的に一言で言わせてもらえばいくらなんでも「長げーよ」である。それほど淡々と進んでいく。修道士の日々の生活との感覚を揃えるためにはそれくらいは耐えつつ見ることで感覚をそろえなくては全く理解できないからだろう。

ただ僕は宗教的な観点よりも、僕の生活とは対局にある生活、それ自体に興味があったのでもやもや感がつのった。例えば美味しそうなバゲットは見えたけど食事のスープや料理は映らない。きっと撮影の禁止事項に入っていたのだろう。僕が見たかった事、知りたかった事は、ほとんどイメージカットのような撮影と、修道士の生活を彷彿とさせる淡々とした繰り返しの編集の彼方に消えてしまった。

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このシーンはフェルメールの絵画のようで美しい。だけど、このニューヨーク・タイムズの評には同感できない。キリスト教者ではない僕には自分でこの世界を考えることをやめて、思考停止して神話の世界に入ってしまった人のように感じる。そこまで「何かを?」「誰かを?」信じきることができるのは幸せだろうとは思うけれど。
死ぬのは神様の近くに行くことだから恐いことでは、なくてむしろ幸せという境地。

※公式サイト