羽黒山キャンプ場 2日目

 夜中、雨が降った。それほど強くなくほんの少し雨漏りしただけだった。雷は幸いなことに遠かった。
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 テント前のゲレンデ。キャンプファイヤーのためのレンガか?
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 前回のキャンプで全然、撥水しなくなっていたので、昨日のテント設営の際に天井部分に防水スプレー一缶を吹きかけておいた。雨水を良くはじいてくれている。
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 毎回、代わり映えのない朝食。全粒粉のパンをトースト、チーズ、目玉焼き、コーン缶を炒めてビアソーセージとミニトマト。スープ、紅茶。
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 100円ショップのこの塩が馬鹿に出来ない美味しさ。
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 家にいるときよりはるかに元気な愛犬小春。刺激がたくさんあるからだろうか。
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 昨晩、カミナリと雨があんまりひどかったら車に逃げ込むつもりだったのでフルフラットにしておいた。
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 幸い、人も犬もテントで安眠できたのでシートを戻す。
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 地面は昨夜の雨で濡れているけど空には薄日が差している。
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 昼のカレー用に炊事棟で米を研いで飯盒に浸しておく。
 流しにずぶ濡れで身動きがとれなくなってしまっているトンボがいた。さすがにそのまま研ぎ汁を捨てられなくて救って台の上に。こーゆー小さな偽善こそが、自然を守ることに繋がっていないような気もするのだけど。


 土門拳記念館まで車で50分もかからない事に気が付き、行ってみる
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 昼にキャンプ場に戻り、米を浸しておいた飯盒で米を炊く。レトルトでカレーの昼食。カレーが2種類だったのでこんな盛り付けに。んー、アウトドアでワイン飲みながらカレー食べると最高なんだけど。我慢、我慢。
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 小春はテントの中で丸くなって昼寝。
 その間に僕は出羽三山神社へ行ってみる。キャンプ場入り口の有料道路を400円払って車で走れば5分。ビール飲んでないからあちこち観光してキャンプじゃないみたい。
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 神社を楽しんだ後は夕食の用意。小春はカミさんから玄米を中心にした食事療法の夕食をもらって満足そう。
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 卓上で炭焼き。(ユニセラTG)これもいつもと同じ。本当に変わり映えしないなぁ。変わっているのは炭焼きでもビールを我慢していることくらいだ。
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 小春のエサにも使うので夕方もう一度ご飯を炊いた。炊きたての銀シャリと牛肉ステーキ(と烏龍茶)。
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 小春をテントに入れて焚き火の準備。小春は火のはぜる音が怖くて嫌い。

 薪をくべながら、ふと見上げた空には満天の星だった。天の川も。カミさんは流れ星も見たと。ムービーには虫の声も。(途中のホームセンターの薪はどこのものか不明だったので買わなかった。キャンプ場で地元の山の薪が買えるというのでそれを使った。不用意に焚き火するのは最低な事故があった今、自殺行為。汚染された薪を燃やすとものすごい濃縮される)
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 テントの中で眠くなるまでの間少し、読書。この本、とても面白い。「暇と退屈の倫理学
 僕たちは定住生活をしているからそれが当たり前だと思っているけど、人類は移動しながら狩猟採集生活を営んできた。文明が進んだから、稲作を始めたから定住生活に変わったと「錯覚」しているけど、慣れ親しんだシステムを切り替えたのは切り替えざるを得ない自体が起こったためで、望んでなった訳ではない。定住しなくてはいけなくて稲作も始めざるを得なかった。
 食べる物がなくなったりして場所を移動したら日没までに食料も寝るところも確保しなくてはいけない。そうやってフルに頭と体を使って暮らしていた生活が「定住」になり、「暇」な時間が生まれた。人類が暇な時間を持って生きた歴史は浅い。だからその暇をどうしたらいいかわからない。というところから「労働」や「退屈」を考察していくことになる。その昔、本当のブルジョアは定住生活で生まれた「暇」を扱う術を持っていた。しかし産業革命後、一般市民の中に「成り上がり」が生まれるが彼らは「暇」をどうしたら良いかわからない、という話はやがて、哲学的な考察にまで。
 愛犬小春も新しい土地に来ると、全身全霊で生きていた太古の狩猟生活の血の力が蘇るのか、家にいるときより確実に元気だ。周囲に気を配り、弱そうな犬には吠え(久しぶりに吠え声を聞いた)、草むらを小走りしている。(飼い主からすると走り方も歩き方も、元気な頃に比べると足の運びが危なっかしくて見てられないのだけど。よく転ぶし)

 そうそう、物を片付けられないあなた。著者の國分功一郞さんはこんな風に言ってくれてますよ

 生活していればゴミが出るし、生きていれば排泄物が出る。したがって定住生活者は、定期的な清掃、ゴミ捨て場やトイレの設置によって環境の汚染を防がなければならない。私たちはそうしたことを当たり前と思っている。そうじをしなければならないことも、ゴミをゴミ捨て場に捨てることも、トイレで用を足すことも。
 しかし、定住革命の視点に立つなら、これらはすこしも当たり前ではない。遊動生活者は、ゴミや排泄物のゆくえにほとんど注意を払わない。理由は簡単だ。彼らはキャンプの移動によって、あらゆる種類の環境汚染をなかったことにできるからである。遊動生活者にはポイ捨てが許されている。
 するとこう考えることができる。数百万年も遊動生活を行ってきた人類にとって、そうじしたり、ゴミ捨て場をつくったり、決められた場所でのみ排便したりといった行動を身につけるのは容易ではなかったのではないか?
 まずゴミについて考えよう。いま文明国の多くがゴミ問題に悩まされており、ゴミの分別をしきりに市民に教育している。だがうまくいかない。
 これはある意味で当然のことである。ゴミというのは意識の外に放り捨てたものだ。もはや考えないようにしてしまったもの、それがゴミである。ゴミの分別とは、そうして意識の外に放り捨てたものを、再び意識化することに他ならない。考えないことにしたものについて再び考えなければならないのだから難しいのである。
 遊動生活を行っていたときにはこのような課題に直面することなどなかった。食べたら食べかすを放り投げておけばよかったのだから。
 定住生活を始めた人類は新たな習慣の獲得を強いられた。定期的に清掃活動を行い、ゴミはゴミ捨て場に捨てるという習慣を創造せねばならなかった。たとえば貝塚のようなゴミ捨て場を決めて、そこにゴミを捨てるよう努力した。
 重要なのは、そのときの困難が今日にも受け継がれているということだ。ゴミの分別がなかなか遊まないこと、そうしかまったくできない人がいることは、この困難の証拠なのである。

 面白いなぁ。