あん

ドリアン助川の「あん」を読んだ。
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作者のドリアン助川さんがこの本の発売イベント(2013/02/26)で以下の様に語っている動画を見て、どうしても読みたいと思っていた。
(動画はamazonサイトで見られます)

「人の役に立つこと」が生きる意味だ
「社会で役立つこと」が自分の生まれてきた意味だ
と言われたことに対して違和感を抱いたんです
・・・・・
我々の生まれてきた意味が
「社会で役に立つとか人の役に立つ」ことだけだとしたら
じゃあなんで人の役に立たないトンボは
あんなに綺麗な羽をしているの?とか
蝶々の羽の模様は何であんなに美しいの?とか
役に立つとか立たないとか
全然違う次元で我々は生まれてきたのではないかと

良い本だった。
僕もこの国は、働けるのに働かない人と、働きたいのに働けない人を十把一絡げにしてると違和感を感じていたので、やさしく「肯定」される物語を読んで少し救われた。

 

全然関係無いけど、物語の始めの方で、主人公の千太郎とあんを作る老人、吉井徳江との間でこんな会話が交わされる。

「私は・・・小さい頃は愛知にいたのよ」
「愛知?」
「そう。豊橋から飯田線というので・・・本物の田舎でね」
ふだんならあり得ないことに、徳江は小豆から目を離して千太郎を見ている。
「でも、とても桜のきれいなところだったの」
「へー、なんていうところですか?」
「うん、あのね・・・」
徳江はそこで間をとった。
「あのね、崖があって、その下を川が流れているの。それで、その崖から川まで桜でいっぱいなのよ。あそこほど、桜の綺麗なところはなかったなあ」
なぜか徳江はその土地の名を出さなかった。

僕はこれを読んだ瞬間にどこかわかった。それは小学校の頃、夏休みになると必ず行っていた祖父母の住んでいるところだったから。そこ以外に考えられない。今のように物騒な時代ではなかったので東京駅で親に東海道新幹線こだまに妹とふたりで乗せられ豊橋のホームに祖父母が迎えに来てくれた事もあった。とてもこわかったけど近くの大人が車両販売のアイスクリームを買ってくれたり「次、豊橋だよ」と教えてくれた。良い世の中だった。
本の最後でそこがどこか会話の中で出てくるけどやはり僕の田舎だった。

大きな2階建ての祖父母の家はお風呂は五右衛門風呂、台所は土間で薪を使って羽釜でご飯を炊いていた。懐かしい。今の世の中があそこから地続きで繋がっている事が夢のようにも感じる。おじいちゃんもおばあちゃんも、もういない。