著作権

11/10の朝日新聞の文化面(宮城県版12版)に「ジャズ喫茶から著作権料」という短い記事が載っていた。音楽業界の著作権をめぐる守銭奴ぶりはまだまだとどまるところを知らないようだ。
 記事は
==日本音楽著作権協会が著作権使用料徴収の「前線」を拡大している。==
ことについての近藤康太郎氏のレポート。

 ライブハウスやジャズ喫茶、ディスコからも裁判も辞さない強硬策で臨み、長年地方で細々と店を続けてきた店主らが悲鳴をあげている。中にはやむなく閉店した老舗ジャズ喫茶もあるらしい。しかも、閉店しても(今までの)使用料の払いは求められる!というから徹底している。
 カラオケや着メロまでとにかく音楽業界のお金を徴収するシステムには日頃から辟易している。とにかく水も漏らさず稼ぐね、音楽業界。才能といってもいろんな才能があるけれど今の時代なら音楽を作り歌う才能に恵まれたいものである。それをお金に変えるシステムは完備されている。しかも、ちょっとCDが売れれば自分をアーティストと呼び、人には呼んでもらえるというオプションまでついている。


 音楽を聴かないで音楽を作った人間はいるのだろうか。
音楽を作るという行為をする人は「音楽」との幸福な出会いを経験しているのだろう。人生を変えるほどの衝撃的なものでなくとも、生まれたときから当たり前のようにあって音楽と共に歩んできた人、折にふれ音楽に勇気づけられた人、音楽を聴く事である情景を思い出す人。誰かの作った音楽を聞き、あるものは意識的に音楽を勉強し、またあるものは音楽に浸るきることで音楽を作る力を身につけるのだろう。多くの先人が作った音楽にひたり自分も「その先」にひとつの曲を作り上げる。その途端、あたかもそれを自分が100%新たに生み出したものであるかのような勘違い。「著作権」なるものを振りかざし、全てを自分のものにしようとする。
 音楽だって美術だって全ては模倣から始まる、と僕は信じている。模倣のない作品などこの世に無い。100%オリジナルな表現なんて無くて、新たな模倣の切り口を探しているだけなのかもしれない。日本人はお上から言われるとははーと聞いてしまうクセがあるみたいで、水戸黄門の印籠じゃないのに「著作権」を振りかざされたらとにかく黙って従う、とか「著作権」を振りかざしているんだから黙れという今の日本のなんたる息苦しさ。そんなところまでアメリカの真似をする必要は無いのに。「俺のもの、俺のもの」ってもう本当にうるさい。「俺のもの」にした中に本当は「みんなのもの」であったものがたくさん混じっている事がわからないのか。僕だって作る側の人間でもあるから著作権は大事だけれど運用の方法はもっと考えられて良いはずだ。
 アメリカで広告か何かに使おうと思った風景写真のごく一部に小さく小さく写っていた家屋の持ち主に権利を主張され結局その写真は使えなくなったという話を聞いた事がある。すでに今でも何かを引用しようとすると大丈夫かなぁと考えたり自主規制する事が多くなった。作品に「引用」するという行為もこれからはもう出来なくなるのだろうか。
 美術を知らない人でも知ってる有名な「モナ・リザ」という肖像画がある。柔らかに手を重ねて静かに笑っている女性の上半身の絵だ。この偉大な肖像画と全く同じポーズの女性像が今までにいったい何枚描かれただろう。あるものはこの偉大な画家に肩を並べようとし、またあるものは霊感を受けて有名無名を問わず多くの画家たちが描いて描いて描いてきた。レオナルド・ダ・ヴィンチの生きている時代に日本音楽著作権協会が無くて良かった。もし誰かが「先生、もったいないことですよ、全く同じポーズの絵からは高額な著作権料をとりましょう」なんて吹き込んでいたら、アングルやコローが描いたこのポーズの大好きな肖像画を見る事が出来なかったのだ。
それは大げさに過ぎるとしても今の状況がエスカレートしたら他人の作ったものを「引用」して新たに作品を制作することは本当に不可能になる。いや、現に一部ではそれがもう始まっている。
その意味でもクリエイティブ・コモンズの活動には基本的に賛成している。
このblogはMovable Type を使って作らせてもらっているけど同じようにMovable Typeでサイト構築した事ある人なら少なからず目にした事があるでしょう。
クリエイティブ・コモンズについての詳しい説明はここでは省くけれど、著作権は尊重しつつ、もう少しゆるやかに作品を共有できないか、ということだと僕は解釈している。クリエイティブ・コモンズのサイトにはこうあります。
「クリエイティブ・コモンズは、他の人々が土台にしたり共有したりするのに使えるクリエイティブな作品の幅を広げるために活動しています。」
flickrはそのひとつの活動例。
flickrというのは世界中のみんなで写真を共有しようという写真サイト(たぶん。。。この説明は僕が勝手に書いたもの)
ここに僕の彫刻の写真や楽しみで撮った写真をアップしているけれど、すべてこのクリエイティブ・コモンズのラベルを貼っている。僕のラベルは
Attribution-NonCommercial-NoDerivs 2.0 Japan
リンクをみれば一目瞭然だと思うけれど「帰属・属性の表示」「作品の営利目的利用不可」「作品の翻案・改変不可」の条件を守れば著作権者にいちいち連絡しなくても作品の使用可というもの。
ありがたいことに僕が今までにflickrにアップした写真をいろんな国のいろんな人のblogにもとりあげてもらっているけど、連絡する必要は無いんだけど多くの人がていねいなメールをくれる。flickrに参加している人はほとんどの場合、自分でも写真を撮ってアップしているから人の写真にも(あたりまえの)敬意をきちんと払っているのだと言えるのかもしれない。少なくとも今はまだ。
 だからわざわざ写真をシェアしあおう!というサイトなのに著作権やクレジットを写真の隅に入れている人が大嫌いだ。写真の質を落としてまで何故クレジットを入れるのか、そもそもそこまで著作権にこだわるなら悪気のある人にも写真持っていかれ放題のflickrに参加しなければいいのに。。。(この話は横道にそれるので、また別にエントリーします)
 
 自分のサイトを整備するのが一番後回しになってしまうのは僕だけじゃないだろうけど、早く自分のサイトを整理して「All rights reserved」の表記を「Some rights reserved」に変えたいともう何年も前から思っている。著作権、著作権とやたら書いてあるサイトが大嫌いとか言っても「All rights reserved」って書いてあったら同じ穴のムジナと思われるからやだなぁ、とずっと思っているのだ。一時期、実力を顧みずアイコンやweb用素材の配布をした事もあったけどその時は「使ってくれるならありがとう。改変自由、連絡無しにガンガンお使いください」でやってた。
 人は生まれ、あたえられて、それを自分のものにして、最後にはまたそれをかえしながら死んでいく。
そーゆー生き物だと思っていた。与えられるものは食べ物や寒さをしのぐ服や愛だけじゃない。そんなことを日本人はついこの間まで当たり前にやってたはずだ。(今では年寄りが話で「かえそうとしても」年寄りの話を聞く耳をもつ人が少ないかもしれないけれど。)それがどーだ。儲けるだけ儲けてもびた一文だって人にはくれてやらないという大人は連日の紙面やテレビで探すのに困らない。日本の経済のトップを走ってきた大人たちのなんとわがままで幼稚であった事。
 ちなみに僕の作った野外彫刻や作品もパンフレットなんかにその写真が使われる事があるけど、もちろん事前に了解なんて求められた事はまず無いし、ましてやお金をもらった事は無い。それどころか、あなたの作品をパンフレットの一部に使ってあげましたからね(感謝しなさいよ)とまで言われてしまいそうな勢いである。気をつけないと「使ってくれて、ありがとう」と言ってしまいそうな自分が嫌だ・笑
 まあ、僕は自分が自分のわがままでつくる彫刻もあるけど野外に置く彫刻は公共のものになる、という事くらいは承知している。ひとつの景色になってしまう訳でその周辺に住む人々はいやでも日常的に目に入るようになる方もいるだろう。そんな人に迷惑にならないといいなぁと思うし、できれば愛されて欲しいと思うから、自分勝手なわがままだけでは作らないようには心がけてきたつもりだ。だから環境に自分の作品を建て終わった後は「自分が作った」という感覚は自分の中に残っているけれど「自分のものだ」という感覚は全く無い。したがって著作権料よこせなんていうつもりも無い。だから僕の彫刻の写った写真を使われてもそのことで文句を言うつもりは無い。もしそれをダシにもうけたのなら僕にも道具のひとつも買って欲しいけど・笑
 いや別に負け惜しみで書いてるんじゃなくてさ。