後藤健二 さん

ISIS(イスラム国とみずからを呼ぶ集団)に拘束されていた、フリージャーナリストの後藤健二さんが殺害されてしまった。先に拘束された湯川さんを助けるために生まれたばかりの子を置いて日本を発ったという。ふたりの日本人の命が救われることを僕も世界中の同じ思いの人と共に祈っていた。とても残念。

それだけではなく、今日に至るまでの日々の中で、この件に関して僕には信じられない事態や考えにたくさん接して暗澹たる思い。(そしておまえら黙ってろという原発事故にもあったような圧力が強まってさらに嫌な思い。)
2004年のイラクでの日本人が殺されてしまった時に盛んに使われた「自己責任」という言葉が今回もまた何度も語られた。これから人生で死ぬまで、他人にほんの少しも迷惑をかけない自信がある人が、この国にはたくさんいるみたいで驚く。声高に自己責任を語るというのはそういうことだ。それは車の運転だって同じだ。事故に巻き込まれる可能性はゼロではないけど、自己責任で運転して出かけたんだから、事故に巻き込まれて怪我をしようと死のうと自己責任。助ける必要は無い、とでもいうのか。雪山で遭難して死んでしまった人に「好きで行ったんだからしかたないじゃない」と切って捨てるようなものだ。中には自ら腹を切れという意見があって、賛同する人までいた。今はいつの時代だ?
いつもは勇ましく「国民の生命と安全を守る」と叫んでいる政権は、本気で助けるための交渉はしなかった。パイプを持つジャーナリストや教授にもコンタクトをとらなかった。自己責任論を振りかざせば、全ては個人の責任になって、政府の責任は無いことになる。

警察の捜査が、湯川さん後藤さんの危機的状況を引き起こした

日本政府は「救出に全力で取り組む」フリをしただけだ。実際には常岡浩介さんや中田考さんらのISISとのパイプを活用しなかったし、ISISが後藤さんのご家族にメールしていたのに、そのメールを使っての交渉も「一切しなかった」

助けられなかった事を、逆手にとって、さらに戦争に近づくような法律の改正だけはやめてもらいたい。

ニュースではテロ対策とか過激派対策とか、あるいは日本人をどうやって守ればいいか、が声高に議論され始めているんだけど、ここで一番、僕らが考えなきゃいけないことというのは、後藤健二さんが一体、何を伝えようとしていたのか、ということ。
戦争になったり、紛争が起きると弱い立場の人がそれに巻き込まれて、つらい思いをするということを、彼は一生懸命に伝えようとしていたんじゃないか。

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今回、朝日新聞記者が、外務省の勧告を無視してシリアに取材に入ったと、読売新聞と産経新聞が批判的に報じています。大新聞の記者が、「危険だから取材に入らない」という態度であったなら、誰が報じるのでしょう。だからこそ、後藤さんの不存在は、日本のジャーナリズム界にとっても損失なのです。

時の政権の首相とお食事会やゴルフばかりしている新聞の姿勢。戦争報道の反省はここにはない。ただ繰り返すだけ。言われることをそのまま、まるで政府公報。まるで官僚。大手マスメディア自らがジャーナリズムの存在意義を捨てようとしている。

14032203ISISがやっている事は言語道断。本当にひどい。ただ反対側から見たらアメリカやその他の国によって、彼らの同胞や仲間や子ども達がテレビゲームのような最先端の技術によって殺されていることも事実。それは欧米や日本ではテロとは呼ばれない。「正義」は一方的な価値観と共にある言葉で恐い。反対側から見たらどうなる。

(今日は節分だった。豆まきした)



僕は以下の

「自粛という名の翼賛体制構築に抗する言論人、報道人、表現者の声明」

に賛同します。

「自粛という名の翼賛体制構築に抗する言論人、報道人、表現者の声明」(案)

私たちは「ISIS(イスラム国)」による卑劣極まりない邦人人質惨殺事件を強く非難し、抗議するものである。また、この憎しみと暴力の連鎖の帰結として起きた事件が、さらなる憎しみや暴力の引き金となることを恐れている。
同時に、事件発生以来、現政権の施策・行動を批判することを自粛する空気が日本社会やマスメディア、国会議員までをも支配しつつあることに、重大な危惧を憶えざるを得ない。
「このような非常時には国民一丸となって政権を支えるべき」
「人命尊重を第一に考えるなら、政権の足を引っ張るような行為はしてはならない」
「いま政権を批判すれば、テロリストを利するだけ」
そのような理屈で、政権批判を非難する声も聞こえる。
だが、こうした理屈には重大な問題が潜んでいる。
まず、実際の日本政府の行動や施策が、必ずしも人質の解放に寄与するものとは限らず、人質の命を危うくすることすらあり得るということだ。であるならば、政府の行動や施策は、主権者や国会議員(立法府)やマスメディアによって常に監視・精査・検証され、批判されるべき事があれば批判されるのは当然の事であろう。
また、「非常時」であることを理由に政権批判を自粛すべきだという理屈を認めてしまうなら、原発事故や大震災などを含めあらゆる「非常時」に政権批判をすることができなくなってしまう。たとえば、日本が他国と交戦状態に入ったときなどにも、「今、政権を批判すれば、敵を利するだけ」「非常時には国民一丸となって政権を支えるべき」という理屈を認めざるを得なくなり、結果的に「翼賛体制」の構築に寄与せざるを得なくなるだろう。
しかし、そうなってしまっては、他国を侵略し日本を焼け野原にした戦時体制とまったく同じではないか? 70 数年前もこうして「物言えぬ空気」が作られ、私たちの国は破滅へ向かったのではなかったか?
実際、テレビで政権批判をすると、発言者や局に対してネットなどを通じて「糾弾」の動きが起こり、現場の人々に圧力がかかっている。
問題なのは、政権批判を自粛ないし非難する人々に、自らがすでに「翼賛体制」の一部になりつつあるとの自覚が薄いようにみえることである。彼らは自らの行動を「常識的」で「大人」の対応だと信じているようだが、本当にそうであろうか?私たちは、今こそ想像力を働かせ、歴史を振り返り、過去と未来に照らし合わせて自らの行動を検証し直す必要があるのではないだろうか? 日本国憲法第 21 条には、次のように記されている。
「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」
日本国憲法第 12 条には、次のようにも記されている。
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」
私たちは、この日本国憲法の精神を支持し尊重する。そしてこの精神は、「非常時」であるときにこそ、手厚く守られ尊重されなければならないと考えている。
なぜなら「非常時」にこそ、問題の解決のためには、様々な発想や見方、考え方が必要とされるからである。
私たち言論・表現活動に携わる者は、政権批判の「自粛」という悪しき流れに身をゆだねず、この流れを堰き止めようと考える。誰が、どの党が政権を担おうと、自身の良心にのみ従い、批判すべきだと感じ、考えることがあれば、今後も、臆さずに書き、話し、描くことを宣言する。