ジュリア・マーガレット・キャメロン展

三菱一号館美術館に、ジュリア・マーガレット・キャメロンの写真を見に行く。

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涼しくするためにあちこちの大柱からミスト噴出。

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10時の開館まで15分くらい早くついてしまったので入り口で様子をうかがっていたら「暑いから中の涼しいところでお待ちいただけますよ」とガラスの戸を開けてスタッフの女性が声をかけてくれる。でもミストも出てるし緑がいっぱいの気持ちの良い中庭なので木陰で待つ。

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空の写真撮ったり

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木漏れ日撮ったりしながら。

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16081335すると年は同じくらいか、知らないおじさんが、この大きな展覧会タイトル看板と一緒に写してくださいと、コンパクトデジカメを僕に渡すと向こうへ走って行って
「では、お願いしまーす」
と言って、いきなり「しぇー」のポーズとってびびった。
カメラ取りに来た時「ご迷惑をおかけしました、すみません」とやけに丁寧だった。おいおい。

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150年前の写真はまるでエッチングのようで、紙にプリントされた写真の魅力を改めて再認識させらせた。ガラス板に溶剤を塗ってネガにする方法で撮られた写真は印画紙の上に直接置いて太陽で露光させたという。(だからネガと写真は必ず等倍)大きさと重さと繊細に扱う事を求められるガラス板を扱う事自体に、女性が写真を撮る事の大変さが偲ばれる。そしてそれを可能にしたであろう自信と情熱を書簡から感じる事ができた。

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肖像写真で有名な彼女だけどこの写真も良かった。まだまだピントをきっちり合わせることはできるけれど、少しずつ回していってキャメロンが見て気持ちの良い瞬間になったらあえて回すのをやめた、という。ソフトフォーカスとか「ブレ」をあえて効果に取り込むとか、写真の原版に直接描き込むとか、今でこそ当たり前のことを写真がやっと一般に普及し始めたこのころにすでに追求している。
写真がいまのように「表現」の一ジャンルとして認められるずっと前で、「記録」としてや客観的な「科学」の補助の道具として使われるべき、といった考えも主流だったらしい。だから彼女の「表現」はその時代の評論家に完全に否定されている。中には撮影だけはちゃんとした撮れる人に分担してもらった方が良い、とまで助言してる評論家まで。きっとその人は本当にそう思ったんだろう。時代を切り開く表現者は、前の時代にしかとどまれない評論家にぼろくそに言われるのは美術の歴史を見ても明らか。新しい時代にいかれず前の時代にとどまって、先へ行こうとする人と引き留めようとする人であるよりも、切り開く人、それが無理でも切り開いた人の世界に共感できる人でありたい。だって前時代にとどまる人ってかっこ悪いんだもん。今の政権の人とか見ても。とどまるどころか前に戻ろうとしているんだからかっこ悪すぎ。

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余談だけど上の写真のモデルにもなったメアリ・ライアンに一目惚れて写真の中でさがしていた。彼女は飢饉のためふるさとからロンドンに出て物乞いをしていた時に、その美しさ胸を打たれたキャメロンが使用人として雇ったという。

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この写真では中央がメアリ・ライアン。
後に見染められて結婚した相手がナイトの称号を与えられ上流社会の一員になったという。まさに美は力だね。

※写真は許可されたエリアでのみ撮影しています

ジュリア・マーガレット・キャメロン展公式サイト