原子力発電と平和 −キリスト者の視点から

 先日「憲法九条を守る会」という会から、原発事故以来、放射能の問題に取り組んで来たことを聞かせて欲しいとのお誘いを受けた。僕も若くはないけど、市内の僕らより年配の方々で同じような危機感を持つ方と出会えなかったのでそれが出来れば、との思いだけで参加し、実際に出会うことができた。少し気持ちを共有できたように感じた。帰り際、初めてお会いした方に「最近送られてきたんですが、この本を読んでみてください」と一冊の本を手渡された。

原子力発電と平和 −キリスト者の視点から
吉村 孝雄著
徳島聖書キリスト集会代表
いのちの水社

 出会うことが出来て良い本だった。僕は特に信じている政治団体や宗教はない。今回のように貸していただいて、今度会ってお返しする時までに読んでいないと失礼だ、というような状況でなければ読まなかったかもしれない。正直に言えば副題に「キリスト者の視点から」という文言があっただけで。
 誤解しないで欲しいのだけど、宗教の存在を否定している訳ではないし、宗教を信じている人のことを否定しているわけでもない。自分一人で生きるのは難しい。何かにすがったり依存したって不思議じゃない。僕だって煙草の依存からは抜けだしたけど週に4日は酒を飲む。ただ自分ではない「誰か」の言う事、言った事を100%信じて生きるのは恐いだけだ。
 だけど、人間の力を超えた大きな力、人間では対処できない大きな力の中で生きている、生かされている、と言う感覚は宗教者とも共有しているのではないかと勝手に思っている。人の力なんて自然の力に比べたら微々たるもの。だけど自然と向き合ってやれることだけは淡々と精一杯やって、あとはお天道さまにお祈りするだけというお百姓さんたちにも深く共感する。屋外で石を彫っている時に手を止めて太陽に顔を向けて「太陽の神様、ありがとうございます」と声に出して、感謝することは、都会を離れ自然の中で暮らすようになってから僕が普通にやっていること。いつでもお祈りできるように、自分のために「太陽の神殿」という作品も作った。(この作品は先日、ある方に買っていただいたので近く”tamaki’s work“に書くつもりです。)いや、雨の日は雨の神様に感謝しているのだけどね・笑
 人間の可能性は無限大。だけど自然の前では謙虚であるべきだ。まして今ある原発を廃炉にするために今から100,000年後まで、どんな天変地異があろうと人間はコントロールできる、と言うのが悪質な新興宗教の説法にしか聞こえない。この新興宗教を推し進めている人のほとんどは経済界と経済評論家だけどね。多くの新興宗教と同じく考えているのは金もうけと自分たちだけの幸せ。プルトニウム飲んでも安全なんて大学教授の言うことじゃない。狂った教祖の話だ。普通の生活を返してから言ってくれ
 話が横道にそれた。「原子力発電と平和」を書かれた吉村孝雄さんは今回の東電の原発事故の前からその危険性を知らせるため、誠実な文章を積み重ねていた。読ませていただいた本にも10年以上前に書かれた原発の危険性についての文章が掲載されていたけど、今回の事故後に読んでもその説得力は変らない。きちんと時代を見据えていている。その警鐘にきちんと耳を貸さなかった自分が残念。
 警鐘を鳴らしてくれた先人は清志郎も含めてたくさん、いたのに今回の原発事故が起こってしまった。その真っ只中で、あちこちで「今やらなければいけない事」を自分で考え、自分で行動し、自分で実現していった人を何人も見た。昔から知っている人だけど今回の事故がなければ知ることが無かっただろう面を見ることができた。尊敬できる人が身近なところに実はたくさんいた。
 望まないのに被曝させられた。それでも国や宮城県やマスメディアや東北の大学は安全と言い続けた。その事に違和感を感じ、大本営発表しか放送しないテレビは見限り、ネットや本で情報を必死に求めてきた人たちには、この本で紹介される記事は一度ならず接したことがある情報かもしれない。だけど大事な情報や出来事をていねいに拾ってまとめ、関連した聖書からの話を紹介し、書き手の考えと併せて紹介して指針を示してくれている。聖書からの引用が(宗教に縁のない僕にも)違和感が無いのは立っている場所と危機感が近いからだろうと思う。筆者は遠く徳島で書いているのに、だ。
 僕は東電の原発事故直後、放射能を無いことにして普通に制作を続けようとした。その事に強く反応したのはカミさんだった。その後、子どもの未来を放射能被害から守ろうとお母さんがたが個々に奮闘している姿を見ることになった。孤立し、国やテレビや宮城県や東北大の先生たちは問題無いと言ってるのに何を騒いでいるのとバッシングされても、泣きながら子どものために動いている姿に教えられた。女性の「命」に対する本能の感覚に触れたことが僕の考え方を大きく変えた。本からの引用。

原発のような、幼な子や新たな生命を体内にやどす女性たちにとくに危険なものは、子供や女性たちのほうが、本能的に正しい感覚と判断を持つのではないかと思わせる一例である。

今回の原発事故後に「母親」の方たちに出会った感覚からも同感。ちなみにこの文章の前に紹介されているのは、藤波心という中学生アイドルの事。僕も原発事故後読んだエントリーが紹介されている。
藤波心オフィシャルブログ『ここっぴーの★へそっぴー』
以下が本でも紹介されている事故直後のエントリー。
「批難覚悟で・・・・」
エントリーにリンクをかけておいたのでまだ一度も読んだことがない方は是非、一度。ただしコメント欄は読まない方がいいです。お金をもらって原発に反対する人のサイトやブログにネガティブなことを書くことでお金をもらういわゆる工作員の仕業か、馬鹿な大人が中学生に「売名行為」と罵ったり上から目線で教育しようとしてる。原発事故直後に読んだ時はこれほどではなかったのにひどいありさまだ。だからコメント欄は無視して読むことをオススメ。もしくはいかに馬鹿な大人がいるか、最低な現実を見たいなら止めないけど。(逆に言えばこの中学生の発言が的を射ていて、しかもツイッターなどで多くの共感と影響を与えているからこそ、これだけ必死に攻撃しているともとれる。いい大人が)
 そんな女性の本能的な感知能力の文脈で紹介されると以下のような文章も腑に落ちる。

 そのような重要な「キリストの復活」という出来事が、男の使徒でなく、女性でしかも七つの悪霊に苦しめられていたという女性マグダラのマリアに最初に告げられたということも、信仰世界における女性の重要性を暗示していると思われるが、こうした直感的にとらえられる感性をもつ女性が原発への反対を強く受け止めることがいっそう期待される。

 チェルノブイリの原発事故でも最初に声を上げたのは女性たちだった。
 第五福竜丸の被曝をきっかけに日本から世界に広がった反核運動。それも母親たちの行動からだった。
 だけど男も原発に依存しない世界のためにがんばらないといけないのはもちろんだ。(これらの文章は本の中では「女性や子どもの感性と原発」と章立てされています)
 読み終わって、借りた本を返してこの本が手元に残らないのはさみしいと思った。この本は買って手元に置いておこうと思い直接「徳島聖書キリスト集会」サイトで注文した。
 実は、もう基本的に講演会や勉強会に行ったり放射能や原発関連の本を買うのはきりがないからやめようと決めていたんだけど。一年間、自分なりに勉強し睡眠時間を削って毎晩ネットで動画も見た。
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今の問題は半減期まで数十年かかる状況で、お前はこれからどうやって生きていくのだ、という事に変わってきているのだ。(と思いながら本を買い、今月もきっと2回は講演会に行くことになるだろう。)
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 この本の著者である吉村孝雄さんに出会ったことが力になり、CDを出されて話題の北田康広さんのCDや会誌、その他たくさん同封して送られてきた。本を注文しただけなのに、恐縮。(ありがとうございます)
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 読みたい人に貸せるように2冊買いました。いつでも貸し出しますから連絡ください。読んでみてください。
 僕は小学校5年の時に親の仕事の都合で世田谷から徳島に転校した。自分が住んだことがある場所が個人的に他の地域より思い入れが強くなるのは仕方ないだろう。(小学校の頃、二本松にも1ヶ月暮らしたことがある。東京に帰るたびに高速道路の車中なのに高い放射線量で悲しくなる)
 直ちに健康に被害はないと言って僕らを被曝させ続けた今の政権は、その後、根拠のない安全をいろんな所で押し付けたけど、徳島県の震災瓦礫の問題に対しての公式ホームページの解答は昔、暮らしたことがあるというだけの僕だけどなんか誇らしかった。えらいなぁ。(万が一、変な圧力でページが消されるかもしれないのでまるごと全部転載しておきます)

■ご意見
登録・更新日:2012-03-15
60歳 男性
タイトル:放射線が怖い? いいえ本当に怖いのは無知から来る恐怖
 東北がんばれ!!それってただ言葉だけだったのか?東北の瓦礫は今だ5%しか処理されていない。東京、山形県を除く日本全国の道府県そして市民が瓦礫搬入を拒んで
いるからだ。ただ放射能が怖いと言う無知から来る身勝手な言い分で、マスコミの垂れ流した風評を真に受けて、自分から勉強もせず大きな声で醜い感情を露わにして反対している人々よ、恥を知れ!!
 徳島県の市民は、自分だけ良ければいいって言う人間ばっかりなのか。声を大にして正義を叫ぶ人間はいないのか? 情け無い君たち東京を見習え。


■回答
 【環境整備課からの回答】

 貴重なご意見ありがとうございます。せっかくの機会でございますので、徳島県としての見解を述べさせていただきます。

 
 このたびの東日本大震災では,想定をはるかに超える大津波により膨大な量の災害廃棄物が発生しており,被災自治体だけでは処理しきれない量と考えられます。


 こうしたことから,徳島県や県内のいくつかの市町村は,協力できる部分は協力したいという思いで,国に対し協力する姿勢を表明しておりました。


 しかしながら,現行の法体制で想定していなかった放射能を帯びた震災がれきも発生していることから,その処理について,国においては1kgあたり8000ベクレルまでは全国において埋立処分できるといたしました。
(なお,徳島県においては,放射能を帯びた震災がれきは,国の責任で,国において処理すべきであると政策提言しております。)


 放射性物質については、封じ込め、拡散させないことが原則であり、その観点から、東日本大震災前は、IAEAの国際的な基準に基づき、放射性セシウム濃度が1kgあたり100ベクレルを超える場合は、特別な管理下に置かれ、低レベル放射性廃棄物処分場に封じ込めてきました。(クリアランス制度)


 ところが、国においては、東日本大震災後、当初、福島県内限定の基準として出された8,000ベクレル(従来の基準の80倍)を、その十分な説明も根拠の明示もないまま、広域処理の基準にも転用いたしました。
(したがって、現在、原子力発電所の事業所内から出た廃棄物は、100ベクレルを超えれば、低レベル放射性廃棄物処分場で厳格に管理されているのに、事業所の外では、8000ベクレルまで、東京都をはじめとする東日本では埋立処分されております。)


 ひとつ、お考えいただきたいのは、この8000ベクレルという水準は国際的には低レベル放射性廃棄物として、厳格に管理されているということです。


 例えばフランスやドイツでは、低レベル放射性廃棄物処分場は、国内に1カ所だけであり、しかも鉱山の跡地など、放射性セシウム等が水に溶出して外部にでないように、地下水と接触しないように、注意深く保管されています。


 また、群馬県伊勢崎市の処分場では1キロ当たり1800ベクレルという国の基準より、大幅に低い焼却灰を埋め立てていたにもかかわらず、大雨により放射性セシウムが水に溶け出し、排水基準を超えたという報道がございました。


 徳島県としては、県民の安心・安全を何より重視しなければならないことから、一度、生活環境上に流出すれば、大きな影響のある放射性物質を含むがれきについて、十分な検討もなく受け入れることは難しいと考えております。


 もちろん、放射能に汚染されていない廃棄物など、安全性が確認された廃棄物まで受け入れないということではありません。安全な瓦礫については協力したいという思いはございます。


 ただ、瓦礫を処理する施設を県は保有していないため、受け入れについては、施設を有する各市町村及び県民の理解と同意が不可欠です。


 われわれとしては国に対し、上記のような事柄に対する丁寧で明確な説明を求めているところであり、県民の理解が進めば、協力できる部分は協力していきたいと考えております。



 (※3/13に公表しておりました回答文に、配慮に欠ける表現がありましたので、一部訂正して掲載いたします。)

 ガレキの問題だけではなくて金のためにねじ曲げられた話が多すぎる。
 福島原発から遠く離れた徳島県に比べて今僕が暮らしている宮城県の知事は原発事故後から放射能被害は無いと言うばかりで逆に放射能で汚染されたものを全国に広めてしまった。放射能から一時的にも離れて保養を望んだ母子が「宮城県は放射能汚染が無いんでしょ」と全国の無償の支援プログラムを当初、受けられなかった例が少なくなかったことも明記しておきます。


 本の作者や徳島聖書キリスト集会のことはこちらのサイトで。徳島聖書キリスト集会。直接、本も買えます。
 これから暑い夏がやってきます。拡散希望のリンクを貼っておきます。あいつら、また偽装停電やって人殺すよ。原発がないとこうなるよと、嘘をつくよ。
<緊急拡散希望!>田中優より「偽装停電の夏」をくいとめよう
 あと、昨日ツイッターで話題になっていたレゲエも貼っておきます。

 これが被災地を馬鹿にしている曲だ、と受け取った人もいるのだそうだ。どうしてそうなるのだろう。「最近、バカが多くて疲れません?」ってCMがお蔵入りにされたことを思い出した。クレームが殺到したのだそうだ。どう考えても苦情の電話をした人たちは、この文脈で言えば「バカ」側の人になっちゃうけどいいの?

 馬鹿が多くて、疲れるよね・笑
 「原子力発電と平和」という本に出会えた喜びを紹介するだけのつもりだったのに、ずいぶんダラダラと長く書いてしまった。この本のおかげで色々な思いがまた頭をグルグル回ったからだろう。ここまでお読みいただいた方にはどうもありがとう。(本の作者の)吉村さんにも感謝します。