てとてと 春 2016

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「てとてと 春 2016」届く。
原発事故による放射能汚染を測るため、友人らが立ち上げた民間の測定室〈みんなの放射線測定室「てとてと」〉が毎春、出している冊子。とてもていねいに作られていて、身近な人の文章が沁みる。今号も表紙を深めて写真を何枚か使っていただいた。特集の「小さくて大きな「ものがたり」を紡ぐ」に寄せられている文章がとても沁みた。それぞれの人のところに行って「読んだよ」って言って握手をしたい気持になってる。

1年前の「てとてと春 2015」では、書くときに(原発事故後に死んだ僕らの愛犬)小春を思って書いた、といってくれた表紙の三田さえ子さんの詩に、さえ子さんが「小春」の写真を使ってくれただけではなくて、僕も「いのちのほうへ」という特集に放射能事故の後の事を書かせていただいた。激動の4年間を文章にまとめる機会を得ることが出来たことを、改めて編集委員の北村みどりさんと<みんなの放射線測定室「てとてと」>のみなさんに感謝したい。その時、その時に思っていることは、「その時」にまとめないと流れていってしまう。

今回、新しい「てとてと 春」が完成したので、自分のブログに去年の号に掲載していただいた文章を再録したいと、編集委員の北村みどりさんに聞いたら快諾していただいたので、再録します。

人と会うのが好きではなくて、人と話をするのが好きではなくて、何も言わない石だけを相手にしていた。作品を作るけど、積極的に人に見てもらうこともしない暮らしを20年以上も続けていた。もし、原発事故が無かったら、いまでもひとり、誰にも知られることもなく石を彫っていたんだと思う。そして今、僕は「孤独」に石を彫ることと同じくらいに、友だちや、新しく知り合った誰かと会って話すること、作品を見てもらう機会がある事に喜びを感じている。あの事故の前と後では「時代」が変わってしまった。


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手を繋ぐ
 〜てとてとの写真展から〜

円空の仏像展を見るために、初春の上野公園を東京国立博物館に向かって歩いていた時、「みんなの放射線測定室てとてと」の運営員の杉山仁子さんから電話がかかってきた。
「てとてとの2階で山中さんの写真展を開きませんか?」

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【愛犬小春と】
  愛犬小春との散歩は毎日の休めない日課だった。暑い日も、雪の日も、風の強い日も、雨の日も。誰も来ない田舎の田んぼのあぜ道だから、リードに繋がれることもなく自由に走り回る小春は、飼い主を放ったらかしてミミズの匂いを体につけたり、食べられるものが落ちてないか探して、勝手に散歩を楽しんでいた。僕は退屈を紛らわすために、いつもカメラを片手に付き合っていた。おかげで満開の桜の写真だけではなくて、雲とか逆光のエノコログサとか、花のように雪を積んだ木の枝とか、夕日の中で輝いている稲の葉についたいくつもの水滴とか、当たり前に、普通に、そこら中にある自然を見つめる楽しさを知った。今から思えばそれは小春にもらった視点だった。だけど、そんな家の周りで撮った何気ない日々の写真が、ある日を堺に別の意味を持つものになってしまった。
2011年3月11日の東日本大震災の大きな地震と津波で東京電力の原子力発電所の原子炉が破壊され、東北を中心に大量の放射性物質が撒き散らされたのだ。
その当時、詳しい知識も情報も無く、後になって、大地やこの身に放射能が降ったことを知ってからは、自然を見るときに放射能の薄いベールが辺り一面に覆いかぶさっているように感じられた。それまでのようにシンプルに美しいと思えなくなっていた。遠くの蔵王に落ちる夕日を見るときにさえ、放射能のレンズを通して見ているような気持ちになった。放射能は目に見えないのに。

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「国破れて山河あり」という。どんなひどい状況になっても大地と水があれば、なんとか人間は生き伸びてやっていける。だけど原発は大地と水と空気を汚した。それでも国や原発を推進してきた人たちは健康に影響は無いと言うだけ。人々の健康を守るために「影響があるかもしれない」という姿勢で取り組むべき行政も、ごく一部の例外を除いて国の方針に追随するばかりだった。そこには大地や、そこに生える木々や、その葉に乗るカエルや、畑や野や山や海や、そこで働き、暮らす人たちの命への視点が欠落している。

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【原発事故後という時代】
 放射能が降る前と後では価値観も世界の見え方も全く変わってしまった。僕にとっては、その日がひとつの「時代」の境目になってしまったかのように感じられた。
原発事故の翌年の夏。僕は原発はいらないという態度を表明するために、原発事故の前に家の周りで愛犬小春と撮った何気ない、だけど放射能のベール越しではなく自然の素晴らしさを、ただシンプルにそのまま受け取ることができた「時代」の写真を、自分で加工して「No Nukes」という文字を入れたデジタル作品を作り始めた。それらを「No Nukes Photo」という連作にして一日一枚インターネット上に発表していった。

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【「てとてと」での写真展】
 てとてとでの写真展は思いがけない提案だった。僕は写真家ではないし、みんなの放射線測定室てとてとは、声高に原発反対を主張することはしない、と聞いていた。原発に賛成でも反対でも「ここ」で暮らす人には測って食べて、自分の健康を守ってもらいたいと願って活動されていることを知っていた。その考え方に共感もしていた。だから思いがけない電話に思わず
「作品には”No Nukes”という文字が入っているけど大丈夫ですか?」と返した。
「これから皆に提案するんですけど賛成してもらえると思います」
結局、2013年の2月16日から23日まで、てとてとで「NO NUKES写真展」を開催していただいた。僕にとって初めての平面作品の作品展だった。
(興味を持たれた方は以下のアドレスで 「No Nukes Photo」をご覧いただけます。http://www.tamaky.com/mt/nonukes

「NO NUKES 写真展」てとてと

「NO NUKES 写真展」てとてと

【宮城で暮らして】
東京の公立中学校で美術教師をしていた僕は、彫刻の制作を中心にした生活をするために大学時代の友人のつてを頼り、他に知り合いのいない宮城県に越してきた。当初はとりあえず、ここで暮らしながら別の場所を探してまた引っ越すつもりだったけれど、そこで出会った人に助けられ、豊かな自然に囲まれ、隣のおじいさん、おばあさんに習って始めた家庭菜園や、地元の美味しい米や農産物をいただきながら暮らしているうちに20年が過ぎていた。子どもの頃から引っ越しばかりだったので、ひとつの場所にこれだけ長く暮らしたのは初めてのことだ。

当初はバブルの余韻がほんの少し残っていて年にひとつくらい屋外に設置する大きな石の作品を制作するチャンスもあったけれど景気が悪くなり、そのような仕事を得ることは難しくなった。それでも、主に石を素材として彫刻を作り続けてきた。ただ、積極的に作品を人に見てもらったり、作品を売る、という意識はほとんど持たずにやってきた。その時々の自分の心に響く形、思いを表しているような形、自分にとって気持ちの良い形を探す作業を、ひとりで続けていたように思う。

山河:角田市

山河:角田市

一日の間に話をしたのはカミさんだけという日も少なくなかった。社交性に欠けるので積極的に誰かと知り合いになる事もなくやって来た生活が、原発事故で一変した。ガイガーカウンターで測定した値は明らかにそれまでの法律の許容値を上回っているのに、問題無いとされ、対策も必要ないとされた。放射能のことで騒ぐなという圧力もある中で、これまでに経験したことが無い事態なのだから、可能な限り情報を集め、放射能への対処をする、という考えを同じくする人たちと手を結ぶ必要があった。情報を交換し、時々会って励まし合うようになった。濁流に流されないように、手の届く人たちとお互いに手を繋いでいくような感じだった。社交性に欠けるとか言ってる余裕は無かった。今思いかえすと、原発事故から2年目までは気持ちに余裕は無かった。ある意味、必死だった。
「てとてと」は、世間の黙ってろ、という抑圧から隔絶して、そこに行けば原発のことや放射能のことを、また放射能に関係のない話も、「普通」に話せる場だった。それだけで、放射線値が心配な野菜の測定ができるのと同じかそれ以上に、どれだけ原発事故後の日々の救いになったかわからない。
「てとてと」で写真展を開いていただいたのは、新しくいろんな人と知り合いになっていた、そんな時だった。作品を見てもらうこと、感想を聞かせてもらうことがとても嬉しかった。写真展が終わる頃はもっと積極的に自分の作品を人に見てもらいたい、という気持ちになっていた。

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【個展】
石の彫刻作品でも個展をやろうと思った。誘ってもらったグループ展などでたまに作品を展示することはあったけれど、個展を開いたことはなかった。実は50才になる前に一度やっておこうと思ったことがある。でも、今思えば、その時はどちらかというと年齢的な区切りが動機で、作品を見てもらいたいという積極的な思いには欠けていた。しかも準備を始めた時に大震災となり、それどころではなくなっていた。再度、個展の開催に向け具体的に動き始めた時に、仙台の一番町にあるライフスタイル・コンシェルジュのアートスペースで個展をやりませんか?と声をかけていただくという幸運も重なって、初めての石彫の個展を2013年の秋に開催した。仙台の中心にある素敵なスペースに、東京を始め遠くからも、思いがけずたくさんの人にきていただいた。原発事故の後に知り合った方々にも来ていただいた。

初めての個展:ライフスタイル・コンシェルジュ

初めての個展:ライフスタイル・コンシェルジュ

その時の自分の心がOKという形を作る、それはとても個人的な作業で、その作業に噓はないけれど、その結果生まれた形を、他人に見ていただくのはおこがましいのではないか?という思いがあったことも事実。だけど、何人かの方の心にはその形や思いが届いたようで嬉しかったし、その気持ちを返してくれた方もいた。それはシンプルに幸せなことだった。

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さらに2014年の初夏には蔵王のミュゼ・マエナカでも個展を開いていただく幸運が続いた。僕が彫刻だけではなく、仕事場の近くの山から産出する世界的にも珍しい、伊達冠石と呼ばれる石で花器を作っているのを知ったギャラリーの方が、個展期間中、フラワー・アーティストの指導のもと、実際に石の花器に花をアレンジして飾るという、石彫と花器の二本立ての企画で展示していただいた。個展会場の空間と展示が素晴らしかったからだろう、石の花器を思いがけないほど多くの方に買っていただいた。作品を見ていただくだけではなくて、色んな方のところに僕の作った作品が広がっていったのは、気持ちが引き締まるようでもあったけれど、嬉しい事だった。

石の花器の展示:ミュゼ・マエナカ

石の花器の展示:ミュゼ・マエナカ

【繋がるという事】
自分で創った作品を介して知り合う。作品を介して話をする。作品が誰かの元へ行く。それはどんなに幸せなことか。それを実現するタイミングだったのだと思う。作品を人に見せる事に自覚的ではなかった昔の自分も、意識的ではなかったかもしれないけど作品によって誰かと繋がる事に最後の可能性を感じていたように思える。人と繋がることが苦手な僕が望んでいたのは結局、そう言うことだ。僕が一番望んでいるのは、作品を通して「今」に生きる人たちと繋がること。
自分の気持ちもそうなっていたし、声をかけてもらって、素晴らしい空間で個展を開いていただく事が続く幸運にも恵まれた。それが「てとてと」から始まったことも不思議な縁に感じる。

原発事故が無かったらどうしていたか、考えることがある。いつかは誰かに見てもらおうと思いながらもあと一歩が踏み出せなくて、相変わらずひとり作品を作り続けていたかもしれない。それは人生の後半に入って、それまでの惰性に任せたやり方を、続けるだけの事だったように思われる。自分の世界に閉じこもるように生きてきた自分が、新しく人と知り合うようになり、作品を介しても繋がり始めたのは幸せな事だ。それは原発事故とそれによる放射能の問題に取り組んできたことと無関係であるとは思えない。渦中で知り合った人は、溺れそうだった中で手を繋いだ人たちだから、すでに大事なことを共有している感覚もある。だけど「原発事故のおかげ」とだけは絶対に言わないとカミさんは言う。確かにそうだ。こんなひどい事はない。
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この国にある全ての原発を作ってきた人たちのやっている事は、放射能が漏れようと何も変わらない。原発事故があっても、以前と同じように原発を推進し、海外にさえ売ろうとしている。放射能で苦しむ人たちに謝罪をしないし、事故から教訓を得ようともしない。教訓を得ない、という事は放射能で苦しんでいる僕らはいない、と言われているに等しい。エネルギーではなく命の問題である原発を、経済だけで語られるのを前に、失ったものを取り戻す事に人生の時間を費やすのだけはやめよう、それは徒労に終わると思ったことを思い出す。僕に、そんな時間は残っていない。ただ、あんなひどいことがあったけど、それがきっかけで人生が良いものに変わった、と後から思えるようにだけはしよう、やれることはやっておこうと思っていた。
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【これから】
原発事故から3年が経ち、放射能の問題が語られることは宮城県南部でも少なくなったように感じる。我が家では食べるものと飲料水に気を配ることはもはや習慣化しているので、これからも続けていくだろう。以前のように時々、外食するようになってしまっているけどせめて家で食べる食事だけでも。

原発事故から2年を待たずに愛犬小春はガンになって死んだ。今、家の周りで写真を撮るときに放射能のベールを感じる事は無くなった。それが良いことなのかそうでないのかはわからない。そして、僕の引っ越しばかりの人生がここで終わりになるのか、そうでないのかも、今はまだわからない。
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